第22回日本ホラー小説大賞受賞作 著:澤村伊智「ぼぎわんが、来る」紹介&感想
映画「来る」を観たのですが、疑問点を解消できなかったりオチに納得がいかなかったので、原作小説を読んでみました。
【参考】
目次
映画版での疑問点は解消されたのか
疑問①ぼぎわんの正体について
※以下ネタバレを含みます。ご注意ください。
原作小説中では、ぼぎわんは人間を攫ってその人間をぼぎわんに変えてしまう悪霊であると描写されていました。
そうなると一番最初のぼぎわんが気になるところですが、流石にその説明や描写はありませんでした。
疑問②なぜ秀樹が狙われたのか
ぼぎわんを呼び寄せた人物とその理由
まずぼぎわんは非常に強力な悪霊であり原作小説内でも「あんなもん、呼ばな来おへんやろ」とまで言われていました。
実際ぼぎわんはある人物によって魔導符によって呼び出されたのです。
しかもその魔導符はドーマンセーマンのご利益を裏返した強力なものでした。
※ドーマンセーマンとは・・・三重県志摩地方の海女さんが身に着ける魔除けのお守り。
ドーマンは陰陽師の芦屋道満、セーマンは同じく陰陽師の安倍晴明の名に由来するとも言われています。
そしてその人物が秀樹の祖母:田原シヅだったのです。
シヅの旦那である田原銀二は家庭内暴力によって実の娘を殺害していました。
そのことに耐えられなくなった次男も家を飛び出し、交通事故によって亡くなっています。
このことからシヅは銀二を心の底から呪い憎んでいたため、ぼぎわんを呼び寄せて銀二を呪い殺そうとしたのです。
実際銀二を呪い殺すことには成功しましたが、ここからがシヅの誤算でした。
ぼぎわんによる選別
ぼぎわんは銀二を呪い殺すだけでは満足せず、田原家の他の人間にも危害を加え始めたのです。
冒頭でも述べたようにぼぎわんは人間を攫ってその人間をぼぎわんに変えてしまう悪霊です。
ぼぎわんに変えるのも誰でも良いわけではないようで、原作小説内で「選別している」という風に表現されていました。
銀二の次は呼び出したシヅ、その次は偶然祖父母の実家の玄関で扉越しに出会った秀樹に狙いを定めたのでしょう。
これは私の推測ですが、ぼぎわんに変える人間は子供の方が適しているんだと思います。
だから子供が山に連れていかれるという形で言い伝えが広まったし、長い年月をかけて秀樹を見つけ出したが、秀樹が大人になってしまっていたのでぼぎわんには適合せず殺害され、最終的に娘のチサちゃんが狙われた。
チサちゃんはぼぎわんに適合したので殺害されずに攫われた・・・といった感じだと思います。
オチについて
映画版では野崎が琴子のお祓いを邪魔し始めたり、琴子とぼぎわんの決着がついたのかハッキリしなかったり、謎のオムライスソングを聞かされた後、急にエンドロールという腑に落ちないオチだったりしましたが、原作小説ではこんなヒドイことにはなっていませんでした。
まず野崎は琴子の邪魔をしたりはしませんし、琴子が青い炎でしっかりとぼぎわんを撃退します。
巻末で「映画やゲーム等、著者が見聞きしたものを参考にした」といった旨の一文があったので、青い炎は「SIREN」というホラーゲームの宇理炎かもしれないですね。
オチもホラーっぽい感じで良かったです。
ちなみに映画に出てきた幼馴染のチサちゃんは、原作小説にはいません😅
そのミスリードいる・・・?
なんで映画版はあんなことになってしまったんや・・・
原作小説に忠実な途中までは間違いなく面白い映画やったのに・・・
ピックアップ
ここからは原作小説を読んでいて印象に残った部分をピックアップしていきます。
耐えてもええことなんかあらへん
祖母は口を開いて、「耐えてもええことなんかあらへんからな」と、一息で言った。
「ぼぎわんが、来る」P.24より抜粋
意味が分からず固まっていると、祖母は唇を震わせて、
「我慢するとな、心の中に、悪いもんが溜まるんや、ずっと後になって、しっぺ返しがくるんや、じっと我慢してたからて、正しいのとちゃう。わたしは耐えた、せやから許される、そんな簡単な話しちゃうんや、世の中は――この世は」
すごく共感できました。
我慢することに慣れてしまうと工夫して解決しようとしなくなりますし、例えばブラック企業なんかで我慢して頑張っても報われることなんかないですからね。
自分の性格や感性もねじ曲がってマヒしてしまいます。
頑張るべき場合と場所が大事だと私は考えています。
ヒドイ旦那
秀樹が帰ってきたのは十時だった。
「ぼぎわんが、来る」P.139より抜粋
「どうした?」能天気にそう訊く彼に、わたしは出ない声を振り絞って、
「お腹・・・空いた」
「自分で作れよ」彼はそう言うと部屋を見渡し「掃除はやんなかったの?」と訊いた。
わたしは茫然としたまま首を振った。「秀樹は、ご飯・・・」
「食べてきたよ」彼は胸を張って、堂々と、
「香奈の負担にならないようにするって、言ったじゃん」と笑った。
わたしが知紗の面倒を見ている間、家事をしている間、秀樹はこんなポエムを書いて、こんな名刺を作って、仲間内に配っていたのだ。配って遊んでいたのだ。
「ぼぎわんが、来る」P.161より抜粋
~中略~
わたしはこんなものに付き合わされているのか。
知紗はこんなことのために生まれ、育てられているのか。
秀樹にとって育児とは、こんな紙切れをバラまくことなのか。
でも、わたしは納得できない。
「ぼぎわんが、来る」P.176、P.177より抜粋
なぜいつも出て行くのは女の側なのか。母親なのか、妻なのか。
理由は明白だ。家という単位は、夫の――男の所有物だという価値観が、根底にあるのだ。
妻は、女は、そしてその子供は、そこに住まわせてもらっているに過ぎないのだ。
法律もその価値観が前提となっている。世帯主はたいていが夫だ。
わたしは納得しない。わたしの身体と心が納得しない。
知紗は、わたしの子供は、わたしが産んだからだ。
知紗はわたしの娘だ。この家は、この家庭はわたしのものだ。
いなくなるべきは秀樹のほうなのだ。
典型的な世間体の為だけに結婚した男って感じでヒドイっすね。
ただ家の所有権に関しては、やっぱり家賃を払っている方に権利があるんじゃないかな~と思いました。
あと「私が産んだから私の子、旦那に親権はない」という論理は流石に無茶苦茶ですね😅
おもしろい表現
ヒノキの浴槽と岩風呂。凶暴な顔をしたブロンズの龍が、口からお湯を吐き出している。
「ぼぎわんが、来る」P.142より抜粋
あの人は――秀樹は、子供より育児が大事だったと思う。
「ぼぎわんが、来る」P.183より抜粋
「凶暴な顔をした」という表現がおもしろい。
あと「子供より育児が大事」という超本末転倒なエゴイズムの表現もおもしろい。
コンプレックス
仕事などないのに、嘘を吐いて、断りの連絡を入れるほど。
「ぼぎわんが、来る」P.209より抜粋
理由は分かりきっていた。子供だ。
子供、子供、子供、子供。
結婚し、子供を生み育てている旧友たちの、それが当たり前だ、正常だと言わんばかりの物言いが、我慢ならなかったのだ。
そのノリを俺に押し付けてくるのが、耐えがたかったのだ。
~中略~
傷ならとっくに癒えている。
離婚が恥だとも思っていない。
ただ俺は、子供がいることが普通だと思っている連中と、関わりたくないのだ。
子供がいないことを異常だ、欠落だと捉えている連中とは。
自分が否定されているような気がするからだ。
そして真琴まで否定された気がするからだ。
幼児虐待の加害者は、大半が実の親だ。
「ぼぎわんが、来る」P.215より抜粋
~中略~
お笑いだ。どいつもこいつもお笑い種だ。
親子ともども死んでしまえばいい。
真琴と会っていない時、仕事が詰まっていない時、俺は気がつけばそうやって、頭の中で連中を呪詛し、嘲笑し、憎悪していた。
~中略~
だから――田原秀樹と会った時も、俺はすぐに彼を軽蔑した。
~中略~
子供が心配だ、妻が心配だと口にする一方で、自分がいかに普通で真っ当な人生を送り、いかに立派な社会生活を営んでいるかを、彼は言葉の端々で強調した。
こいつは子供より、家族より、下らない自分のプライドを優先している。
もともと子供を作らない、そういう生き物であるかのように振る舞おうとしている。
「ぼぎわんが、来る」P.226より抜粋
「親子ともども死んでしまえばいい」とまで考えるのは流石にひねくれすぎでは?と最初は考えていました。
しかし野崎は無精子症で望んだとしても子供を設けることが出来ないので、そんな彼に子供を設けることの充実感を語ることは、生まれつき足の不自由な人にサッカーやサイクリングの面白さをアピールしまくるのと同じなんじゃないかということに気づいて、ハッとしました。
太宰治が人間失格の中で「不幸な人は、ひとの不幸にも敏感なものだから」という表現を使っていましたが、裏を返せば「幸福な人は他人の不幸に鈍感」ということになります。
確かに幸福な時ってその幸福を楽しむことに夢中で、不幸な人のことなんか頭の中を過(よ)ぎることすらないですからね。
もちろん子供の話をしている側に悪意はないんでしょうが、この野崎の件も太宰治の言っていることに当て嵌まってるな~と思いました。
以上、「ぼぎわんが、来る」を読んだ感想でした。
参考になれば幸いです。
【参考】